ドラマ化された「点と線」が放映されたのは先月最後の三連休でしたから今さらな話ですが…。
また、「時間の習俗」は、「点と線」とは別事件ながらも鳥飼・三原両刑事が再登場するという、松本清張にしてはいささか特異な作品です。私はむしろ両刑事のやりとりが濃密に感じられる後者が好きです。
鳥飼刑事を主役にする関係上、かなり脚色が加わっていましたが、本筋の謎解きはむしろ原作に忠実であまり違和感を覚えませんでした。
さらによかったのは、たっぷり2日がかりの長時間放映にしたことでした。今となってはわかりづらい昭和32年頃の情景をお金も手間もかけてじっくりと再現しただけにこれだけの尺で観て欲しかったというのもあるのかもしれませんが、さらに別の理由もあったように感じました。
その理由をここで書くと、いきなりネタバレになりそうなので「追記」にします。まあ、「追記」にしたところでRSSフィードに載せないぐらいの効果しかありませんが…。
さて、「点と線」の初出は昭和32年2月から翌昭和33年1月まで続いた雑誌「旅」の連載小説でした。2003年に休刊するまでの同誌は写真は比較的少なめで紀行文や史跡などの歴史に関する比較的硬派な企画が目立ったように記憶しています。アン・ノン(・るるぶ)族すら存在しなかった連載当時は、純粋な旅好き・鉄道好きが主な読者層であり、時刻表には大変馴染みがあったはずです。もちろん、2004年に復刊以降のターゲットである「スイーツ(笑)」とは趣を異にしていました。
余談ですが、私の幼少時のかかりつけの医院の待合室にはこの雑誌「旅」が必ず置いてありました。ですから、まだ歩けない年齢の頃から同誌は他の大人向けの雑誌に比べ、私にとってとりわけ目に馴染みのあるものでした。しかも出会うのは体調の悪いときに限るわけで、長じた後でも同誌の表紙を見るたびに、熱っぽい感覚とルゴール液の味と匂いとが思い出されて不思議な気分になります。もっとも、「点と線」の連載時には私は生まれていませんでしたが…。
「点と線」の登場人物の行動はほとんど当時の時刻表に基づいているという一点でとても斬新な推理小説として受け止められたように訊いています。連載中からの好評も後押しして、昭和33年に単行本として出版されるとすぐにベストセラーとなりました。
右の新潮文庫のカバーデザインは私が中学生に頃に購入した手元の文庫本と全く違います。奥付をみると「昭和47年(1972年)印刷」ですから、無理ありません。
老刑事の姓である「鳥飼」は、福岡市大濠公園近くにある地名が由来だろうと推測できます。
ところが、はじめて原作を読んだ中学生の私は大阪にある新幹線の車両基地に由来するものと思い込んでしまいました。なまじ鉄道に関連する作品だったのでそれに引きずられたのでしょう。「東京都と福岡県との間を取って松本清張は大阪府に義理だてしたのだろう…」みたいなことを友人に話すと、原作が執筆されたのは東海道新幹線が開通する前であることを指摘されつつ、鼻で笑われました。
ところで、原作にはいくつかの「キズ」があることが指摘されています。具体的には下記のページからリンクされている論文(PDF)に詳しいです。まだ、両作品をお読みになっていない方にはおすすめできませんが、なかなか興味深い内容でした。
『点と線』と『時間の習俗』の間 : 松本清張私論(1) (CiNii)
同論文では「点と線」と「時間の習俗」との両方ともが酷評されています。
私はこの論文を読む前は、てっきり「時間の習俗」は「キズ」の指摘された「点と線」の「汚名を雪ぐ」目的で執筆されたものと思っていました。特に鳥飼・三原両刑事のようなキャラの立った人物の再登場などは清張作品では例外中の例外であり、そこに「雪辱」の意を感じました。ところが同論文では「時間の習俗」の方がより評価が低いようにも読めて、とても意外です。
上記論文に記載された考察はとても有意義なものとは思いますが、両作品とも初出が旅雑誌の連載小説であったことを考慮してもいいのではないかなぁ…という気がしないでもありません。書き下ろしでも、ミステリー小説誌への連載でもないのですから、最初に作品を目にするのは旅行ファンです。毎回、読者の嗜好(旅情)を刺激するような描写が求められる一方、本格的なミステリー小説ファンを満足させるほどのプロットの厳密性までは求められていなかったように思います。
それと「倒叙モノ」って、最初に容疑者を特定する段階ではかなり恣意的な描写があるように思います。
なお、今般のドラマ化に当たってこれらの「キズ」をどう扱うかに興味があったのですが、「キズ」を修復するような脚色は一切ありませんでした。ドラマの脚本家は上の論文にあるような批判を承知していたのかどうかわかりませんが(知っているとは思いますが)、下手に糊塗して原作のテンポが損なわれることを避けたのでしょう。私にはそれはとても正しい選択だと感じました。
その代わり、原作に無いエピソードをわざわざ創作し、それらを積み上げてそれぞれの登場人物の抱えていた事情を強調していました。まさにこれをやりたかったから、あれだけの時間(尺)が必要だったのだろうと推測します。
なお、「時間の習俗」には写真撮影に関わるトリックも登場します。それをより洗練されたトリックとして用いたのが右の「日本アルプス殺人事件」でした。もはや銀塩写真はメインストリームではなくなり、あと何年かすると、デジタルカメラの普及とともにこういったトリックも理解されづらくなっていくことでしょう。